中島義道『差別感情の哲学』 その1

 

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

 

 

司会者「前回の予告から、二か月も過ぎましたけど、なにやってたんですか?」

 

テキト「今回、取り扱う、中島義道『差別感情の哲学』を読み返してたんですけど、あまりにも突っ込みどころが多すぎて。上手くまとめられなくて、他の人の書評を参考に読んでみたら、僕には書評は無理だなって」

 

司会者「じゃあ、なにするんですか?」

 

テキト「屁理屈を語ります」

 

司会者「まあ、じゃあ、始めてください」

 

テキト「人は他人を差別しがちですけど、学校やメディアでは差別はいけないことだって言われてますよね。僕もそう思っていた時期があってですね」

 

司会者「でも、実際、差別してたんでしょう?」

 

テキト「教室で差別ネタで盛り上がったりする仲間がいると、「非常識な奴だ。僕はあいつらより人間が出来ている」と、心の中で見下してました。別に差別反対って声を上げるわけでもなく、黙って聞いてるという」

 

司会者「それ、単に嫌な奴ですね」

 

テキト「差別は正義に反するって思ってはいるものの、仲間外れになるのが怖かったんですよ。まあ、板挟み状態ですね」

 

司会者「いじめ回避としては、間違ってはないですけど、正しいとは言い切れませんね」

 

テキト「僕は、差別する奴を心の中で差別してたってことですけど、差別感情を抱くことの是非を問うのが、この本のテーマなんですよ」

 

 制度上の差別は撤廃してしかるべきだろう。差別発言も(少なくとも)制限されるべきである。しかし、差別撲滅運動が人間の心に潜む悪意まで徹底的に刈り込むことを目標にするのだとしたら、誰もが差別感情を抱かなくなることを到達点とみなすのだとすれば、直感的にそれは違うのではないかと思う。われわれがある人に対して(ゆえなく)不快を覚え、ある人を(ゆえなく)嫌悪し、軽蔑し、ある人に(ゆえなく)恐怖を覚え、自分を誇り、自分の帰属する人間集団を誇り、優越感に浸る・・という差別感情は、・・誤解をされることを承知で言い切れば、人間存在の豊かさの宝庫なのである。

 

 テキト「差別感情は豊かさの宝庫、なんて言われると、あの頃の僕は間違ってなかったのかも、って期待しちゃいますよね」

 

司会者「そんな読み方するの、あなただけです」

 

テキト「さらに、この本では、差別感情を持つ人に糾弾する行為に対して、待ったをかけてるんですよ」

  

 こうした怒りは、現代日本社会のみならず欧米型現代社会一般の倫理観にしっかり守られており、よってその表出は(時流に乗っているという意味で)気楽であるという構造を自覚しているのなら多少マシであるが、こういう「事件」に対してごく自然に対して怒りを噴出させ、それに対して微塵の自己批判精神もないとしたら、ひどく危険であろう。

(中略)

 自己批判精神の欠いている人は、時代の風潮に乗った「正義」の名のもとに思う存分その侵害者を弾圧する。

  

テキト「差別反対って声を上げなかったあの頃の自分をますます好きになれるかも」

 

司会者「誤読しすぎですよ。差別撤廃を追及しすぎると、周りから恐れられ、やがては権力を持つようになるという指摘ですから」

 

テキト「分かってます。まともな主張です。けど、この本、迷走していくんですよ。差別感情を持つことのメリットは取り上げられず、「誇り」やら「自尊心」やら「向上心」とかのポジティブな感情は差別に繋がると、反差別の方に行くんです。差別感情は豊かさの宝庫、って問題提起はどこへやら。もう、がっかりです。さらに、この本は、あれもこれも差別なんじゃないかと指摘していくうちに、ついつい差別的な物言いになってくるんです」

 

司会者「確かに、差別的と感じる箇所がありましたけど」

 

テキト「この本の取扱方は、最初は差別撲滅のためには自己批判精神が大事だと説いていた著者が、差別感情を持つ人を糾弾していくにつれ、だんだんと自己批判精神が欠けていき、やがては被差別者さえも差別してしまうという、ミイラ取りがミイラになる過程を味わう本なんです」

 

司会者「ちょっと待ってください。あなたはこの著者よりも頭がいいって、言いたいだけなんでしょう?」

 

テキト「分かっちゃいました?」

 

司会者「なんか、偉そうですから」

 

テキト「その判定は最後にしてもらうとして、この本のどこが差別的だったのか検証していこうと思います。第二章では、知的格差や美醜格差について論じられてます」

 

 (欧米型)近代社会の残酷さは、「個人主義」という名のもとに、各個人の知的・肉体的能力の差異を認めたうえで、フェアな戦いを要求することである。フェアに戦えば、もともと能力の優れている者が勝つこと、能力の優れていない者が負けることは当たり前であるが、あらゆる差別に対して神経を尖らせながら、こうした能力差別については問題提起しない。

 しかも、負けた者、成果を出せない者が、自分の能力のないことを理由にすることさえ、許されないのが実情である。「その前に、きみは努力したのか?」という問いがいつも控えている。そして、本当のところは誰も信じていないのに、努力すれば必ず報われるという神話がまかり通っている。

(中略)

 不美人がどんなに努力しても美人には太刀打ちできないし、鈍才がどんなに努力しても秀才にはかなわない。しかし、それを知りながら、恋愛闘争において、入学試験闘争において、それを理由にすることがほぼ禁じられているのだ。それを理由にすること、そのことが「負け犬」とみなされるのだ。

 (中略)

 各人間の生まれつきの肉体的・知的格差(「人間的能力格差」と言えるであろう)は、火を見るより明らかなのに、それを不可思議な仕方で見えないようにして、みな取りつかれたように「努力、努力」という掛け声だけを発するのである。 

 

テキト「このカウンターとして、「ダメ連」という人たちがいましたけど、今なにやってるんでしょうね。まあ、ここまでは、真っ当な主張です」

 

司会者「学力格差については、データがありますからね。親が高学歴だと、その子供も高学歴なる傾向があるという」

 

 近代社会においては、出自、身分、性別、人種などによる差別をしてはならないことが高らかに宣言されている。しかし、知的能力に基づいた差別だけは大手を振ってまかり通っている。

(中略)

 学力を中核とする知的能力の欠如者は、ともすれば「人間として劣っている」とみなされてしまうのだ。この格差は誰も問題にしない。なぜなら、いかなる解決もないからである。知的障害者なら立派な(?)弱者、被差別候補者として現代社会では丁重に保護される。しかし、単なる低学力者はいかなる保護もされない。この理不尽を前にして仕方ないと諦めるほかないのである。 

 

テキト「知的障害者は丁重に保護されていると書かれてますけど、就労問題に関しては、最低賃金以下で働いている人が多いのが現状です。あまりにも、現実を知らなすぎです」

 

司会者「この本で引用されるのは、哲学系や差別論の本ばかりで、差別された当事者が書いた本を読んだ形跡がないんですよね」

 

テキト「そう。だから、被差別者が抱える実際の問題には触れられず、あくまでもイメージに対しての言及になってるんです。その代わり、低学力者などの差別問題として扱われない人に対しては、具体的でして。で、結論では、知的格差や美醜格差は社会に認知されない問題として、身体障害者などの差別と比較してしまうんです」

 

 差別問題においては、身体障害者精神障害者・被差別部落出身者・在日韓国朝鮮人性同一性障害者などに対する「特権化された差別」と並んで、こうした見えない差別がじわじわ浸透している。こうした差別は、特権化された差別に比べ無限に「些細な問題」に見えしかも近代社会の基本枠に関わるがゆえ、社会制度的解決が難しい。

 

テキト「この「特権化された差別」の「特権」って言葉が、差別的と指摘されても仕方ないです」

 

司会者「「特権」って書いてますけど、マジョリティーからしたら、当たり前の権利ですからね」 

 

テキト「まあ、ブスや頭の悪い人への差別は、障害者などへの差別よりも酷いと訴えたかったんでしょうけども、そこは、比較しちゃダメなんですよ。「特権化された差別」と「見えない差別」を対立関係として語ると、どちらかに非があるはずだと読み手を誘導させますから。身体障害者たちの権利を「特権」扱いすることで、優遇されすぎた権利だと誤解されても仕方ないです」

 

司会者「本心なんじゃないですか? 著者が裏に秘めた差別意識が暴露された気がしますけれども」

 

テキト「それは分からないです。少なくとも、ブスや頭の悪い人への冷遇された状況を訴えたことに非はありません。けど、訴えたかっただけで、その解決について放棄してることは、哲学者としてどうなの? って思います」

 

司会者「ブスや頭の悪い人への差別は解消できるんですか?」

 

テキト「社会制度的解決は難しいですよ。個人的に解決するのは可能ですけど。ブスを例に考えてみると、社会制度的に解決を目指すには、ブスと美人の間には「格差」があることを客観的なデータとして証明しなければならないんですよ。幸せ満足度とか抽象的なものじゃなくて、生涯賃金格差とか、結婚率とか。でも、ブスとか美人っていうのは、感覚的なものじゃないですか。だいたい、ブスと美人をどう線引きするのか。自己申告でいくのか。それとも、第三者が評価すべきなのか」

 

司会者「美醜を客観的に評価するなんて、無理じゃないですか」

 

テキト「しかも、そういうデータが取れたとしても、低賃金で働く人は、高給取りよりも不幸なのか? 既婚者に比べ、未婚者は弱者なのか? という問題が残るんです。未婚者の中には、自ら独身を選び、幸せに暮らしている人もいるはずです。未婚者が幸せか不幸かなんて、そんなの個人個人で違うと思うんですよ。けど、ブスが結婚差別を受けていることを証明するためには、未婚者が差別されているという前提が必要不可欠なんですよ。社会制度的解決っていうのは、あくまでも格差の平均化を目指すものですから、微々たる格差じゃ政府を動かせません。未婚者が最貧困層なら、動かせます」

 

 差別による被害を認め、差別に対する怒りを燃やすには、それとは違う差別を必要とする。

 

テキト「これは、呉智英が「危険な思想家」という本で指摘していたことです。「格差問題」があることを社会に認めさせることはできます。「格差問題」っていうのは、弱者と強者がいるって問題です。けど、「差別問題」っていうのは、被害者と加害者がいるって問題なんです。「格差問題」を「差別問題」に移行させるには、その弱者が国の被害者であることを認めさせないとなんです。そのために、まず、その被害を証明する必要があり、さらに、その責任が国にあることを証明しなければならないんです」

 

司会者「ひどく面倒くさいですね」

 

テキト「そういった意味で、著者の結論は間違ってないんですよ」

 

司会者「この本を読んでくと憂鬱になるのは、差別問題の解決法を示してないからなんですよね。そういうのは、最初からテーマじゃないとしてますけど」

 

テキト「興味がないんでしょう。で、僕が代わりに、この本に載っていた被差別体験を題材に、その解決法を語りたいんですけど、それは次回にします」

 

司会者「早めの更新、待ってます。それにしても、ブスとか頭の悪い人とか平然と言い放ってましたけど、かなり差別的じゃないですか?」

 

テキト「そうですか? 僕は、社会では美醜や知能で人を評価しがちで、そこには弱者と強者がいるっていう「格差」を説明しただけなんですけど。それを「差別」と言うんであれば、被害を証明してください」

 

司会者「訂正します。差別的じゃなくて、デリカシーがないですね」

 

テキト「よく言われます」

 

危険な思想家 (双葉文庫)

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