中島義道『差別感情の哲学』 その2

 

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

 

 

司会者「前回の続きにも関わらず、なんで時間かかってんですか?」

 

テキト「実はこの本持ってないんですよ。図書館で借りて返すを繰り返してて」

 

司会者「批評するなら、買うのがマナーじゃないですか? 印税も入らず、あれこれ言われる著者の立場にもなって下さいよ」

 

テキト「だから、アマゾンのリンク張ってるんですよ。アフィリエイトのやり方が分かってないんで、僕は一銭も稼げません。あと、スマホで前回の記事見たら、やたら改行して読みにくかったんで、修正しました」

 

司会者「今まで確認しなかったんですか?」

 

テキト「すみません。上げっぱなしでした。気を取り直して、予告通り、この本で取り上げられている事例についての解決法を語っていきます」

 

司会者「どうせ偉そうに語るんでしょう?」

 

テキト「今回はクールにいきますよ。この本は、差別する人の心理には深く切り込むのに、差別される人に関しては浅いんですよ。被害者は正義で固定されてるんです。第二章で、慶大卒のグループに三流大学出身者が混じった時の辛さが書かれてます」

 

  ある男が出身校の慶応大学を愛しているとしよう。それは、慶応のOBだけが集まっている席ではさしたる禍をもたらさない。だが、そこにさまざまな三流大学の出身者がいるとき、彼の発言は彼らを切りつける刃に変わる。それでも、彼がひとりであれば害悪は少ない。

 最も差別構造の「完成された」形態は、ほとんどが慶応大学出身者であって、わずかに三流大学出身者が混じっている席である。

(中略)

 問題は彼らにほとんど罪の意識のないことである。「ぼくは慶応を出たことなんか、なんとも思っていない」とさえ言うであろう。みな口裏を合わせたように、いかに慶応が(優れているかではなく)ひどい大学であったか、自分はその中でもいかにひどい学生であったかを語り続けるであろう。

(中略)

 彼らは慶応卒なのだから社会的に評価されてしまっている。あえてそう問い詰めれば、意外な顔をして、自分は母校を愛しているだけだと言うであろう。だが、その「愛」は三流大学卒の前では自然に「誇り」という意味をまとってしまうこと、それを知りながら知らぬふりをする彼らは狡いことこの上ない。その狡さを見抜きながら(そうは言えず)、一緒に笑い転げる三流大学の秀才たちは、全身で傷を負うのである」

 

テキト「これ、学歴コンプレックスにすぎないと思いませんか?」

 

司会者「でも、社会的評価は慶大卒の方が高いですよね」

 

テキト「それはそうですけど、この状況の被害って、疎外感を感じたことだけですよ。これって、1対nの場で感じる疎外感じゃないですか。映画オタクの集団の中に1人放り込まれたときの、作品名とか監督名とかの固有名詞だらけで話についていけねえって感じと一緒です。慶大卒の人だって、ギャンブルと女の話題がメインのような 輩たちに囲まれたら、疎外感を感じるはずですよ」

 

司会者「でも、映画オタクと慶大卒とでは、社会的評価が違いますよね。高学歴の人の方が、低学歴の人をバカにできる立場にいますよ。バカにするしないは、高学歴の意識次第で」

 

テキト「だったら、インテリ層をバカにする庶民もいます。人間味に欠けるとか、世界観が狭いとか。それこそ、バカにするしないは、庶民の意識次第です」

 

司会者「そんな相対的に言われても」

 

テキト「学歴による就職差別があるのは認めますよ。けど、この取り上げた事例に関しては、相手と語り合う余地はあります。あえて、慶大生の文脈を無視して、「ほんとひどい大学ですね」とか「最低の学生だったんですね」とか答えてもいいじゃないですか。別に、相手の言葉を深読みしなくたっていいんです。それができないのは、コンプレックスを感じるあまり、余裕がなくなって相手を見てないからです。で、そういうコンプレックスが差別に繋がることを、この著者は別の項で指摘してるんです」

 

 あらゆる差別感情の根っこには恐怖がある。それがどんなに凶暴な差別であろうと、差別を行使している人は恐怖におののいているのだ。よって、他の何が排除されても人々の心の中から恐怖を消滅させない限り、差別感情に切り込むことはできない」 

 

テキト「学歴コンプレックスには、高学歴の人への恐怖が混じってるんですよ。その恐怖から身を守るために、壁を作ってるんです。で、その恐怖を除去できれば、本人にとって一番楽な状態になるんですけど、この本では、その方法は語ってません」

 

司会者「どうすればいいんですか?」

 

テキト「集団として見るんじゃなく、個人と個人の寄せ集まりとして見るんです。で、その人が周りからどんな評価をされているかを聞きまわる。どんなに社会的な価値が高いグループであっても、そのグループ内の人間は、その社会的評価以外で差異を図ろうとしますから。じゃないと、グループ内の人たちは互いが差別化できません」

 

司会者「仕事ができるとか、モテるとか?」

 

テキト「すべてが高評価されてる人なんて、いませんよ。そんなの、周りが許しません。「仕事ができるけど、ケチ」とか「女にモテるだろうけど、いいかげんで信用できない」とか。高学歴だから全てが完璧なんて幻想です」

 

司会者「つまり、高学歴の人たちは、互いを潰しあっていると」

 

テキト「まあ、そういう不健全なグループもあるでしょうけど、健全なグループなら、いろんな価値観を持った人がいるんですよ。車好きとかサブカル好きとか変態なんかが。その中から、自分に合う価値観の人と仲良くなれれば、学歴なんて様々な評価軸の一つに過ぎないって悟れます。コンプレックスってのは、一つの価値観を信じて、頂点に行けなかった挫折感のことですから」

 

司会者「そういうコミュニケーションの戦術については、この本は触れてもいませんね」 

 

テキト「この本の欠点は、差別問題を扱ってるにも関わらず、コミュニケーションについての考察がないことです。この著者は、差別する人や差別された人に取材してません。この本で扱われた差別の事例は、テレビで見たものだったり、新聞や本で読んだものがほとんどです。著者の体験が一部記されていますけど、被差別者に遭遇した時の自分の心を語るだけで、実際に差別者や被差別者とコミュニケーションしてません」

 

 成田空港でのこと。広大な空港を歩いていると、前方十メートルのところに、ちょっと気になる歩き方をしている白人の小柄な少年がいる。ふっと見ると両手の腕のところから直接数本の短い指が出ている、いわゆるサリドマイド児であった。それを認めた一瞬、私はそちらの方向に行くことを躊躇した。彼にやがて追いつき追い越すことに抵抗を覚えた。そのときの自分の「何気なく」振舞うであろうしぐさに嫌悪感をもったのである。自然なかたちで「彼」に対することができない自分の小ささに苛立ちを覚え、しかもそれを避けてしまった自分の狡さに嫌悪を覚えた。

(中略)

 この場合、誠実を求める私にどんな選択肢があるであろうか? 私のそのままの感受性に忠実に、嫌悪感と不快感にわずかな戸惑いの籠もったまなざしで彼を見据えることが誠実なのか? それとも、あたかも知らない振りを装って急ぎ足で彼を追い越すことが誠実なのか?

 直感的に、どちらも「違う!」という叫び声が聞こえてくる。

(中略)

 ここで、もう一度よく考え直してみよう。私が‐これは事実であるが‐、ある種の障害者に対して不快感とも嫌悪感とも言えないどうしようもない違和感を抱いてしまう。そういう違和感を抱いた瞬間に、私はそういう感情を抱いている自分を激しく責める。そして、相手の「過酷な人生」を評価しようとする。つまり、そういうふうにして、私は彼の人生を勝手に「過剰なもの」とみなし、それを尊敬しようと努力し始めるのだ。

 しかも、そういう自分の「嫌悪から尊敬への屈折」の狡さも見通している。これには、さまざまな感情がまとわりついている。彼の人生を一概に「過酷な人生」と決めつけることはできないかもしれない、そう決めつけることこそが差別感情なのだ、だから過酷な人生を「尊敬する」という感情もじつは差別感情の表れなのだ・・という判断が脳髄でざわざわ音を立てている。

 

テキト「差別問題ってのは、コミュニケーションの問題なんですよ。相手とコミュニケーションすることで、自分や相手の差別感情が変化したりするんですけど、あくまでもそこは固定のままです」

 

司会者「「ある種の障害者に対して違和感を感じる」って告白は、明らかに差別的ですよね」

 

テキト「批判覚悟の上なんでしょう。その「違和感」を起点として問題提起がされてるんですけど、著者が「違和感」を感じたことは事実なんで、僕はそこは不問にします」

 

司会者「これを読んで傷ついた当事者がいるかもしれないんですけど」

 

テキト「抗議するなとは言いません。でも、人の感情を他人がコントロールできるわけないですよね。著者自身すらコントロールできないと告白してるのに。そういう「違和感」を公表することは控えるべき、くらいしか言えないですよ。もし、著者の差別感情を根っこから変えさせたいんなら、その「違和感」なんてものは一過性のもので、時間が経つと変化するものだって感覚的に分からせることです。前まで嫌いだった女の子を不意に好きになったりするみたいに、感情なんて案外いいかげんなものだって。それを分からせるには、批判する側はただ一方的に怒りをぶつけるんじゃなくて、相手がその怒りを受け止めたとしたら、自分の怒りはどう変化するのかも伝えることも必要だと思うんですよ」

 

司会者「いちいちそこまで考えて抗議しなきゃいけないんですか?」

 

テキト「まあ、ストレートに怒りをぶつけてもいいですよ。こんな哲学者となんか関わりたくない人は。ただ、ネット上では抗議できても、実際面と向かって批判することに難しさを感じる人もいると思うんですよ。相手が暴力振るうんじゃないかとか心配して。そういう場合、上手なクレームのつけ方というのを鴻上尚史氏が 「この世界はあなたが思うよりはるかに広いドン・キホーテのピアス17」で紹介しています。ただし、鴻上尚史氏は、抗議することを「交渉」と言い換えてます。実例として、映画館で隣の席の女性がスマホを見ていた時のことを書いています」

 

 一番やってはいけないのは、「(スマホを)しまって下さい」とか「そんなことやめて下さい」という言葉です。「しまって下さい」は、いきなりの命令です。それは、「世間」では成立しますが、「社会」では成立しません。

 こういう時は、まず、①相手のしたことを具体的に説明する。僕は横の女性に向けて、「あの隣でスマホを見られると」と言いました。

 次が、②その結果、あなたにどんな影響があったか、具体的に説明する。僕は、「まぶしくて、画面が見にくいんです」と伝えました。

 ここで、その女性は、ハッとしてスマホをしまってくれました。もし、ここでもしまわなければ、③現在の自分の感情を冷静に伝える。冷静さが大切です。「見にくくて、とても困ってます」と僕は伝えたでしょう。そして、④冷静に自分の希望を語る。「すいみませんが、上映中にスマホを見るのをやめていただけませんか」と伝えます。

 「社会」に対する「交渉」はこの4つのステップが基本です。

 

テキト「簡単に説明すると、「世間」っていうのは、顔見知りの人で、「社会」というのは、赤の他人ということです」

 

司会者「家族や友達だったら、ステップ③から始められるけど、初対面の人だったら、ステップ①から伝えた方がいいってことですね」

 

テキト「その方が、余計な衝突を避けられます。で、著者の問題提起の方ですけど、これっての、「反差別」を純粋に信じてしまった人が陥るダブルバインドなんですよ。差別をしてはいけないけど、自分には差別感情があった場合、相手を過小評価したことに罪悪感を感じて、想像で相手を過大評価して、つじつまを合わせようとするんです。でも、無理があるんですよ。この場合も、恐怖から身を守るために、壁を作って、相手を見てません。そもそも、この問題提起は、「誠実」というキーワードを中心に発展させてますけど、著者自身の差別感情の告白に免罪符を与えるために出てきた言葉です。キーワードを変えるべきです」 

 

司会者「どんなキーワードなら良かったんですか?」

 

テキト「「共存」です。そうすると、問題提起されるのは、自分が差別感情を感じた相手と、または、自分に差別感情を感じている相手と、どう付き合っていけばいいのか、というコミュニケーションの話になるんです」

 

司会者「じゃあ、この場合、著者はサリドマイド児に対して、どう振る舞えば良かったんですか?」

 

テキト「彼を一瞥して、「違和感」を抱えたまま、追い越せばいいんですよ。スクランブル交差点で大勢の健常者を目にしても、気にせず素通りしますよね。結果的にコミュニケーションしなくてもいいんです。問題は、この著者がいちいち考え込んでしまうことです」

 

司会者「哲学者に向かって考えるな、って」

 

テキト「それを言うんなら、そもそも、これって差別だと思います? この事例って、心の中での思考なんですよね。考えあぐねいている人って、身体的には挙動不審になりがちなんですよ。もし、サリドマイド児が後ろを振り返って著者を見たら、困惑すると思いますよ。「こいつ、ヤベえ奴かも」って。サリドマイド児は、「不快感とも嫌悪感とも言えないどうしようもない違和感」を著者に感じるはずです」

 

司会者「なに言ってるんですか?」

 

テキト「いや、この著者に感じて欲しいんですよ。サリドマイド児には彼自身の世界観があって、著者の世界観と一致してないってことを。「反差別」を極端に信じている人って、それが絶対的なルールだと思い込んでるんですよ。で、その世界観を一方的に他人に押し付けがちなんです」

 

司会者「でも、差別はいけないことですよね」

 

テキト「「不当な」差別がいけないんです。「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」でも、対象は「不当な」差別に対してです。「不当な」差別の定義は曖昧だからこそ、なにが「不当」でなにが「不当」でないかの議論が必要だし、差別を止めさせるには「交渉」が不可欠なんです。けど、僕は、すべての差別がいけないと思っていたあまり、他人の差別発言には批判的になる一方、自分の差別感情に免罪符を与えてしまってたんです。それと同じ傲慢さを、この本にも感じました。この著者には、その矛盾を整理して、ぜひ続編を書いてほしいです。タイトルは、『反差別をこじらせて』」

 

司会者「勝手に決めないでください」

 

テキト「まだツッコミたいとこは多々あるんですけど、この辺で終わりにします。差別について考えたい人にはお薦めの本です」

 

司会者「次回はなにを取扱いますか?」

 

テキト「身体障害者の自立生活について。渡辺一史『そんな夜更けにババナかよ』についてトリセツします」