中島義道『差別感情の哲学』 その2

 

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

 

 

司会者「前回の続きにも関わらず、なんで時間かかってんですか?」

 

テキト「実はこの本持ってないんですよ。図書館で借りて返すを繰り返してて」

 

司会者「批評するなら、買うのがマナーじゃないですか? 印税も入らず、あれこれ言われる著者の立場にもなって下さいよ」

 

テキト「だから、アマゾンのリンク張ってるんですよ。アフィリエイトのやり方が分かってないんで、僕は一銭も稼げません。あと、スマホで前回の記事見たら、やたら改行して読みにくかったんで、修正しました」

 

司会者「今まで確認しなかったんですか?」

 

テキト「すみません。上げっぱなしでした。気を取り直して、予告通り、この本で取り上げられている事例についての解決法を語っていきます」

 

司会者「どうせ偉そうに語るんでしょう?」

 

テキト「今回はクールにいきますよ。この本は、差別する人の心理には深く切り込むのに、差別される人に関しては浅いんですよ。被害者は正義で固定されてるんです。第二章で、慶大卒のグループに三流大学出身者が混じった時の辛さが書かれてます」

 

  ある男が出身校の慶応大学を愛しているとしよう。それは、慶応のOBだけが集まっている席ではさしたる禍をもたらさない。だが、そこにさまざまな三流大学の出身者がいるとき、彼の発言は彼らを切りつける刃に変わる。それでも、彼がひとりであれば害悪は少ない。

 最も差別構造の「完成された」形態は、ほとんどが慶応大学出身者であって、わずかに三流大学出身者が混じっている席である。

(中略)

 問題は彼らにほとんど罪の意識のないことである。「ぼくは慶応を出たことなんか、なんとも思っていない」とさえ言うであろう。みな口裏を合わせたように、いかに慶応が(優れているかではなく)ひどい大学であったか、自分はその中でもいかにひどい学生であったかを語り続けるであろう。

(中略)

 彼らは慶応卒なのだから社会的に評価されてしまっている。あえてそう問い詰めれば、意外な顔をして、自分は母校を愛しているだけだと言うであろう。だが、その「愛」は三流大学卒の前では自然に「誇り」という意味をまとってしまうこと、それを知りながら知らぬふりをする彼らは狡いことこの上ない。その狡さを見抜きながら(そうは言えず)、一緒に笑い転げる三流大学の秀才たちは、全身で傷を負うのである」

 

テキト「これ、学歴コンプレックスにすぎないと思いませんか?」

 

司会者「でも、社会的評価は慶大卒の方が高いですよね」

 

テキト「それはそうですけど、この状況の被害って、疎外感を感じたことだけですよ。これって、1対nの場で感じる疎外感じゃないですか。映画オタクの集団の中に1人放り込まれたときの、作品名とか監督名とかの固有名詞だらけで話についていけねえって感じと一緒です。慶大卒の人だって、ギャンブルと女の話題がメインのような 輩たちに囲まれたら、疎外感を感じるはずですよ」

 

司会者「でも、映画オタクと慶大卒とでは、社会的評価が違いますよね。高学歴の人の方が、低学歴の人をバカにできる立場にいますよ。バカにするしないは、高学歴の意識次第で」

 

テキト「だったら、インテリ層をバカにする庶民もいます。人間味に欠けるとか、世界観が狭いとか。それこそ、バカにするしないは、庶民の意識次第です」

 

司会者「そんな相対的に言われても」

 

テキト「学歴による就職差別があるのは認めますよ。けど、この取り上げた事例に関しては、相手と語り合う余地はあります。あえて、慶大生の文脈を無視して、「ほんとひどい大学ですね」とか「最低の学生だったんですね」とか答えてもいいじゃないですか。別に、相手の言葉を深読みしなくたっていいんです。それができないのは、コンプレックスを感じるあまり、余裕がなくなって相手を見てないからです。で、そういうコンプレックスが差別に繋がることを、この著者は別の項で指摘してるんです」

 

 あらゆる差別感情の根っこには恐怖がある。それがどんなに凶暴な差別であろうと、差別を行使している人は恐怖におののいているのだ。よって、他の何が排除されても人々の心の中から恐怖を消滅させない限り、差別感情に切り込むことはできない」 

 

テキト「学歴コンプレックスには、高学歴の人への恐怖が混じってるんですよ。その恐怖から身を守るために、壁を作ってるんです。で、その恐怖を除去できれば、本人にとって一番楽な状態になるんですけど、この本では、その方法は語ってません」

 

司会者「どうすればいいんですか?」

 

テキト「集団として見るんじゃなく、個人と個人の寄せ集まりとして見るんです。で、その人が周りからどんな評価をされているかを聞きまわる。どんなに社会的な価値が高いグループであっても、そのグループ内の人間は、その社会的評価以外で差異を図ろうとしますから。じゃないと、グループ内の人たちは互いが差別化できません」

 

司会者「仕事ができるとか、モテるとか?」

 

テキト「すべてが高評価されてる人なんて、いませんよ。そんなの、周りが許しません。「仕事ができるけど、ケチ」とか「女にモテるだろうけど、いいかげんで信用できない」とか。高学歴だから全てが完璧なんて幻想です」

 

司会者「つまり、高学歴の人たちは、互いを潰しあっていると」

 

テキト「まあ、そういう不健全なグループもあるでしょうけど、健全なグループなら、いろんな価値観を持った人がいるんですよ。車好きとかサブカル好きとか変態なんかが。その中から、自分に合う価値観の人と仲良くなれれば、学歴なんて様々な評価軸の一つに過ぎないって悟れます。コンプレックスってのは、一つの価値観を信じて、頂点に行けなかった挫折感のことですから」

 

司会者「そういうコミュニケーションの戦術については、この本は触れてもいませんね」 

 

テキト「この本の欠点は、差別問題を扱ってるにも関わらず、コミュニケーションについての考察がないことです。この著者は、差別する人や差別された人に取材してません。この本で扱われた差別の事例は、テレビで見たものだったり、新聞や本で読んだものがほとんどです。著者の体験が一部記されていますけど、被差別者に遭遇した時の自分の心を語るだけで、実際に差別者や被差別者とコミュニケーションしてません」

 

 成田空港でのこと。広大な空港を歩いていると、前方十メートルのところに、ちょっと気になる歩き方をしている白人の小柄な少年がいる。ふっと見ると両手の腕のところから直接数本の短い指が出ている、いわゆるサリドマイド児であった。それを認めた一瞬、私はそちらの方向に行くことを躊躇した。彼にやがて追いつき追い越すことに抵抗を覚えた。そのときの自分の「何気なく」振舞うであろうしぐさに嫌悪感をもったのである。自然なかたちで「彼」に対することができない自分の小ささに苛立ちを覚え、しかもそれを避けてしまった自分の狡さに嫌悪を覚えた。

(中略)

 この場合、誠実を求める私にどんな選択肢があるであろうか? 私のそのままの感受性に忠実に、嫌悪感と不快感にわずかな戸惑いの籠もったまなざしで彼を見据えることが誠実なのか? それとも、あたかも知らない振りを装って急ぎ足で彼を追い越すことが誠実なのか?

 直感的に、どちらも「違う!」という叫び声が聞こえてくる。

(中略)

 ここで、もう一度よく考え直してみよう。私が‐これは事実であるが‐、ある種の障害者に対して不快感とも嫌悪感とも言えないどうしようもない違和感を抱いてしまう。そういう違和感を抱いた瞬間に、私はそういう感情を抱いている自分を激しく責める。そして、相手の「過酷な人生」を評価しようとする。つまり、そういうふうにして、私は彼の人生を勝手に「過剰なもの」とみなし、それを尊敬しようと努力し始めるのだ。

 しかも、そういう自分の「嫌悪から尊敬への屈折」の狡さも見通している。これには、さまざまな感情がまとわりついている。彼の人生を一概に「過酷な人生」と決めつけることはできないかもしれない、そう決めつけることこそが差別感情なのだ、だから過酷な人生を「尊敬する」という感情もじつは差別感情の表れなのだ・・という判断が脳髄でざわざわ音を立てている。

 

テキト「差別問題ってのは、コミュニケーションの問題なんですよ。相手とコミュニケーションすることで、自分や相手の差別感情が変化したりするんですけど、あくまでもそこは固定のままです」

 

司会者「「ある種の障害者に対して違和感を感じる」って告白は、明らかに差別的ですよね」

 

テキト「批判覚悟の上なんでしょう。その「違和感」を起点として問題提起がされてるんですけど、著者が「違和感」を感じたことは事実なんで、僕はそこは不問にします」

 

司会者「これを読んで傷ついた当事者がいるかもしれないんですけど」

 

テキト「抗議するなとは言いません。でも、人の感情を他人がコントロールできるわけないですよね。著者自身すらコントロールできないと告白してるのに。そういう「違和感」を公表することは控えるべき、くらいしか言えないですよ。もし、著者の差別感情を根っこから変えさせたいんなら、その「違和感」なんてものは一過性のもので、時間が経つと変化するものだって感覚的に分からせることです。前まで嫌いだった女の子を不意に好きになったりするみたいに、感情なんて案外いいかげんなものだって。それを分からせるには、批判する側はただ一方的に怒りをぶつけるんじゃなくて、相手がその怒りを受け止めたとしたら、自分の怒りはどう変化するのかも伝えることも必要だと思うんですよ」

 

司会者「いちいちそこまで考えて抗議しなきゃいけないんですか?」

 

テキト「まあ、ストレートに怒りをぶつけてもいいですよ。こんな哲学者となんか関わりたくない人は。ただ、ネット上では抗議できても、実際面と向かって批判することに難しさを感じる人もいると思うんですよ。相手が暴力振るうんじゃないかとか心配して。そういう場合、上手なクレームのつけ方というのを鴻上尚史氏が 「この世界はあなたが思うよりはるかに広いドン・キホーテのピアス17」で紹介しています。ただし、鴻上尚史氏は、抗議することを「交渉」と言い換えてます。実例として、映画館で隣の席の女性がスマホを見ていた時のことを書いています」

 

 一番やってはいけないのは、「(スマホを)しまって下さい」とか「そんなことやめて下さい」という言葉です。「しまって下さい」は、いきなりの命令です。それは、「世間」では成立しますが、「社会」では成立しません。

 こういう時は、まず、①相手のしたことを具体的に説明する。僕は横の女性に向けて、「あの隣でスマホを見られると」と言いました。

 次が、②その結果、あなたにどんな影響があったか、具体的に説明する。僕は、「まぶしくて、画面が見にくいんです」と伝えました。

 ここで、その女性は、ハッとしてスマホをしまってくれました。もし、ここでもしまわなければ、③現在の自分の感情を冷静に伝える。冷静さが大切です。「見にくくて、とても困ってます」と僕は伝えたでしょう。そして、④冷静に自分の希望を語る。「すいみませんが、上映中にスマホを見るのをやめていただけませんか」と伝えます。

 「社会」に対する「交渉」はこの4つのステップが基本です。

 

テキト「簡単に説明すると、「世間」っていうのは、顔見知りの人で、「社会」というのは、赤の他人ということです」

 

司会者「家族や友達だったら、ステップ③から始められるけど、初対面の人だったら、ステップ①から伝えた方がいいってことですね」

 

テキト「その方が、余計な衝突を避けられます。で、著者の問題提起の方ですけど、これっての、「反差別」を純粋に信じてしまった人が陥るダブルバインドなんですよ。差別をしてはいけないけど、自分には差別感情があった場合、相手を過小評価したことに罪悪感を感じて、想像で相手を過大評価して、つじつまを合わせようとするんです。でも、無理があるんですよ。この場合も、恐怖から身を守るために、壁を作って、相手を見てません。そもそも、この問題提起は、「誠実」というキーワードを中心に発展させてますけど、著者自身の差別感情の告白に免罪符を与えるために出てきた言葉です。キーワードを変えるべきです」 

 

司会者「どんなキーワードなら良かったんですか?」

 

テキト「「共存」です。そうすると、問題提起されるのは、自分が差別感情を感じた相手と、または、自分に差別感情を感じている相手と、どう付き合っていけばいいのか、というコミュニケーションの話になるんです」

 

司会者「じゃあ、この場合、著者はサリドマイド児に対して、どう振る舞えば良かったんですか?」

 

テキト「彼を一瞥して、「違和感」を抱えたまま、追い越せばいいんですよ。スクランブル交差点で大勢の健常者を目にしても、気にせず素通りしますよね。結果的にコミュニケーションしなくてもいいんです。問題は、この著者がいちいち考え込んでしまうことです」

 

司会者「哲学者に向かって考えるな、って」

 

テキト「それを言うんなら、そもそも、これって差別だと思います? この事例って、心の中での思考なんですよね。考えあぐねいている人って、身体的には挙動不審になりがちなんですよ。もし、サリドマイド児が後ろを振り返って著者を見たら、困惑すると思いますよ。「こいつ、ヤベえ奴かも」って。サリドマイド児は、「不快感とも嫌悪感とも言えないどうしようもない違和感」を著者に感じるはずです」

 

司会者「なに言ってるんですか?」

 

テキト「いや、この著者に感じて欲しいんですよ。サリドマイド児には彼自身の世界観があって、著者の世界観と一致してないってことを。「反差別」を極端に信じている人って、それが絶対的なルールだと思い込んでるんですよ。で、その世界観を一方的に他人に押し付けがちなんです」

 

司会者「でも、差別はいけないことですよね」

 

テキト「「不当な」差別がいけないんです。「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」でも、対象は「不当な」差別に対してです。「不当な」差別の定義は曖昧だからこそ、なにが「不当」でなにが「不当」でないかの議論が必要だし、差別を止めさせるには「交渉」が不可欠なんです。けど、僕は、すべての差別がいけないと思っていたあまり、他人の差別発言には批判的になる一方、自分の差別感情に免罪符を与えてしまってたんです。それと同じ傲慢さを、この本にも感じました。この著者には、その矛盾を整理して、ぜひ続編を書いてほしいです。タイトルは、『反差別をこじらせて』」

 

司会者「勝手に決めないでください」

 

テキト「まだツッコミたいとこは多々あるんですけど、この辺で終わりにします。差別について考えたい人にはお薦めの本です」

 

司会者「次回はなにを取扱いますか?」

 

テキト「身体障害者の自立生活について。渡辺一史『そんな夜更けにババナかよ』についてトリセツします」

 

 

中島義道『差別感情の哲学』 その1

 

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

差別感情の哲学 (講談社学術文庫)

 

 

司会者「前回の予告から、二か月も過ぎましたけど、なにやってたんですか?」

 

テキト「今回、取り扱う、中島義道『差別感情の哲学』を読み返してたんですけど、あまりにも突っ込みどころが多すぎて。上手くまとめられなくて、他の人の書評を参考に読んでみたら、僕には書評は無理だなって」

 

司会者「じゃあ、なにするんですか?」

 

テキト「屁理屈を語ります」

 

司会者「まあ、じゃあ、始めてください」

 

テキト「人は他人を差別しがちですけど、学校やメディアでは差別はいけないことだって言われてますよね。僕もそう思っていた時期があってですね」

 

司会者「でも、実際、差別してたんでしょう?」

 

テキト「教室で差別ネタで盛り上がったりする仲間がいると、「非常識な奴だ。僕はあいつらより人間が出来ている」と、心の中で見下してました。別に差別反対って声を上げるわけでもなく、黙って聞いてるという」

 

司会者「それ、単に嫌な奴ですね」

 

テキト「差別は正義に反するって思ってはいるものの、仲間外れになるのが怖かったんですよ。まあ、板挟み状態ですね」

 

司会者「いじめ回避としては、間違ってはないですけど、正しいとは言い切れませんね」

 

テキト「僕は、差別する奴を心の中で差別してたってことですけど、差別感情を抱くことの是非を問うのが、この本のテーマなんですよ」

 

 制度上の差別は撤廃してしかるべきだろう。差別発言も(少なくとも)制限されるべきである。しかし、差別撲滅運動が人間の心に潜む悪意まで徹底的に刈り込むことを目標にするのだとしたら、誰もが差別感情を抱かなくなることを到達点とみなすのだとすれば、直感的にそれは違うのではないかと思う。われわれがある人に対して(ゆえなく)不快を覚え、ある人を(ゆえなく)嫌悪し、軽蔑し、ある人に(ゆえなく)恐怖を覚え、自分を誇り、自分の帰属する人間集団を誇り、優越感に浸る・・という差別感情は、・・誤解をされることを承知で言い切れば、人間存在の豊かさの宝庫なのである。

 

 テキト「差別感情は豊かさの宝庫、なんて言われると、あの頃の僕は間違ってなかったのかも、って期待しちゃいますよね」

 

司会者「そんな読み方するの、あなただけです」

 

テキト「さらに、この本では、差別感情を持つ人に糾弾する行為に対して、待ったをかけてるんですよ」

  

 こうした怒りは、現代日本社会のみならず欧米型現代社会一般の倫理観にしっかり守られており、よってその表出は(時流に乗っているという意味で)気楽であるという構造を自覚しているのなら多少マシであるが、こういう「事件」に対してごく自然に対して怒りを噴出させ、それに対して微塵の自己批判精神もないとしたら、ひどく危険であろう。

(中略)

 自己批判精神の欠いている人は、時代の風潮に乗った「正義」の名のもとに思う存分その侵害者を弾圧する。

  

テキト「差別反対って声を上げなかったあの頃の自分をますます好きになれるかも」

 

司会者「誤読しすぎですよ。差別撤廃を追及しすぎると、周りから恐れられ、やがては権力を持つようになるという指摘ですから」

 

テキト「分かってます。まともな主張です。けど、この本、迷走していくんですよ。差別感情を持つことのメリットは取り上げられず、「誇り」やら「自尊心」やら「向上心」とかのポジティブな感情は差別に繋がると、反差別の方に行くんです。差別感情は豊かさの宝庫、って問題提起はどこへやら。もう、がっかりです。さらに、この本は、あれもこれも差別なんじゃないかと指摘していくうちに、ついつい差別的な物言いになってくるんです」

 

司会者「確かに、差別的と感じる箇所がありましたけど」

 

テキト「この本の取扱方は、最初は差別撲滅のためには自己批判精神が大事だと説いていた著者が、差別感情を持つ人を糾弾していくにつれ、だんだんと自己批判精神が欠けていき、やがては被差別者さえも差別してしまうという、ミイラ取りがミイラになる過程を味わう本なんです」

 

司会者「ちょっと待ってください。あなたはこの著者よりも頭がいいって、言いたいだけなんでしょう?」

 

テキト「分かっちゃいました?」

 

司会者「なんか、偉そうですから」

 

テキト「その判定は最後にしてもらうとして、この本のどこが差別的だったのか検証していこうと思います。第二章では、知的格差や美醜格差について論じられてます」

 

 (欧米型)近代社会の残酷さは、「個人主義」という名のもとに、各個人の知的・肉体的能力の差異を認めたうえで、フェアな戦いを要求することである。フェアに戦えば、もともと能力の優れている者が勝つこと、能力の優れていない者が負けることは当たり前であるが、あらゆる差別に対して神経を尖らせながら、こうした能力差別については問題提起しない。

 しかも、負けた者、成果を出せない者が、自分の能力のないことを理由にすることさえ、許されないのが実情である。「その前に、きみは努力したのか?」という問いがいつも控えている。そして、本当のところは誰も信じていないのに、努力すれば必ず報われるという神話がまかり通っている。

(中略)

 不美人がどんなに努力しても美人には太刀打ちできないし、鈍才がどんなに努力しても秀才にはかなわない。しかし、それを知りながら、恋愛闘争において、入学試験闘争において、それを理由にすることがほぼ禁じられているのだ。それを理由にすること、そのことが「負け犬」とみなされるのだ。

 (中略)

 各人間の生まれつきの肉体的・知的格差(「人間的能力格差」と言えるであろう)は、火を見るより明らかなのに、それを不可思議な仕方で見えないようにして、みな取りつかれたように「努力、努力」という掛け声だけを発するのである。 

 

テキト「このカウンターとして、「ダメ連」という人たちがいましたけど、今なにやってるんでしょうね。まあ、ここまでは、真っ当な主張です」

 

司会者「学力格差については、データがありますからね。親が高学歴だと、その子供も高学歴なる傾向があるという」

 

 近代社会においては、出自、身分、性別、人種などによる差別をしてはならないことが高らかに宣言されている。しかし、知的能力に基づいた差別だけは大手を振ってまかり通っている。

(中略)

 学力を中核とする知的能力の欠如者は、ともすれば「人間として劣っている」とみなされてしまうのだ。この格差は誰も問題にしない。なぜなら、いかなる解決もないからである。知的障害者なら立派な(?)弱者、被差別候補者として現代社会では丁重に保護される。しかし、単なる低学力者はいかなる保護もされない。この理不尽を前にして仕方ないと諦めるほかないのである。 

 

テキト「知的障害者は丁重に保護されていると書かれてますけど、就労問題に関しては、最低賃金以下で働いている人が多いのが現状です。あまりにも、現実を知らなすぎです」

 

司会者「この本で引用されるのは、哲学系や差別論の本ばかりで、差別された当事者が書いた本を読んだ形跡がないんですよね」

 

テキト「そう。だから、被差別者が抱える実際の問題には触れられず、あくまでもイメージに対しての言及になってるんです。その代わり、低学力者などの差別問題として扱われない人に対しては、具体的でして。で、結論では、知的格差や美醜格差は社会に認知されない問題として、身体障害者などの差別と比較してしまうんです」

 

 差別問題においては、身体障害者精神障害者・被差別部落出身者・在日韓国朝鮮人性同一性障害者などに対する「特権化された差別」と並んで、こうした見えない差別がじわじわ浸透している。こうした差別は、特権化された差別に比べ無限に「些細な問題」に見えしかも近代社会の基本枠に関わるがゆえ、社会制度的解決が難しい。

 

テキト「この「特権化された差別」の「特権」って言葉が、差別的と指摘されても仕方ないです」

 

司会者「「特権」って書いてますけど、マジョリティーからしたら、当たり前の権利ですからね」 

 

テキト「まあ、ブスや頭の悪い人への差別は、障害者などへの差別よりも酷いと訴えたかったんでしょうけども、そこは、比較しちゃダメなんですよ。「特権化された差別」と「見えない差別」を対立関係として語ると、どちらかに非があるはずだと読み手を誘導させますから。身体障害者たちの権利を「特権」扱いすることで、優遇されすぎた権利だと誤解されても仕方ないです」

 

司会者「本心なんじゃないですか? 著者が裏に秘めた差別意識が暴露された気がしますけれども」

 

テキト「それは分からないです。少なくとも、ブスや頭の悪い人への冷遇された状況を訴えたことに非はありません。けど、訴えたかっただけで、その解決について放棄してることは、哲学者としてどうなの? って思います」

 

司会者「ブスや頭の悪い人への差別は解消できるんですか?」

 

テキト「社会制度的解決は難しいですよ。個人的に解決するのは可能ですけど。ブスを例に考えてみると、社会制度的に解決を目指すには、ブスと美人の間には「格差」があることを客観的なデータとして証明しなければならないんですよ。幸せ満足度とか抽象的なものじゃなくて、生涯賃金格差とか、結婚率とか。でも、ブスとか美人っていうのは、感覚的なものじゃないですか。だいたい、ブスと美人をどう線引きするのか。自己申告でいくのか。それとも、第三者が評価すべきなのか」

 

司会者「美醜を客観的に評価するなんて、無理じゃないですか」

 

テキト「しかも、そういうデータが取れたとしても、低賃金で働く人は、高給取りよりも不幸なのか? 既婚者に比べ、未婚者は弱者なのか? という問題が残るんです。未婚者の中には、自ら独身を選び、幸せに暮らしている人もいるはずです。未婚者が幸せか不幸かなんて、そんなの個人個人で違うと思うんですよ。けど、ブスが結婚差別を受けていることを証明するためには、未婚者が差別されているという前提が必要不可欠なんですよ。社会制度的解決っていうのは、あくまでも格差の平均化を目指すものですから、微々たる格差じゃ政府を動かせません。未婚者が最貧困層なら、動かせます」

 

 差別による被害を認め、差別に対する怒りを燃やすには、それとは違う差別を必要とする。

 

テキト「これは、呉智英が「危険な思想家」という本で指摘していたことです。「格差問題」があることを社会に認めさせることはできます。「格差問題」っていうのは、弱者と強者がいるって問題です。けど、「差別問題」っていうのは、被害者と加害者がいるって問題なんです。「格差問題」を「差別問題」に移行させるには、その弱者が国の被害者であることを認めさせないとなんです。そのために、まず、その被害を証明する必要があり、さらに、その責任が国にあることを証明しなければならないんです」

 

司会者「ひどく面倒くさいですね」

 

テキト「そういった意味で、著者の結論は間違ってないんですよ」

 

司会者「この本を読んでくと憂鬱になるのは、差別問題の解決法を示してないからなんですよね。そういうのは、最初からテーマじゃないとしてますけど」

 

テキト「興味がないんでしょう。で、僕が代わりに、この本に載っていた被差別体験を題材に、その解決法を語りたいんですけど、それは次回にします」

 

司会者「早めの更新、待ってます。それにしても、ブスとか頭の悪い人とか平然と言い放ってましたけど、かなり差別的じゃないですか?」

 

テキト「そうですか? 僕は、社会では美醜や知能で人を評価しがちで、そこには弱者と強者がいるっていう「格差」を説明しただけなんですけど。それを「差別」と言うんであれば、被害を証明してください」

 

司会者「訂正します。差別的じゃなくて、デリカシーがないですね」

 

テキト「よく言われます」

 

危険な思想家 (双葉文庫)

危険な思想家 (双葉文庫)

 

 

このブログのトリセツ

司会者「では、始めましょうか。ブログは初めてなんですよね」

 

テキト「そうなんです。ブクマってなに? とか思ってまかすら」

 

 司会者「主に差別問題をメインに取り扱うんですか?」

 

テキト「一応、そのつもりです。差別問題を考えるにあたって参考になった本をテキストに、今の社会問題と絡めていこうかなって考えてます」

 

司会者「差別問題といっても、部落差別や人種差別など様々ですけど」

 

テキト「僕が読んできたのは、身体障害者に関する差別問題ですね。そこで考えたことをベースに発展させていこうかなと」

 

司会者「大丈夫ですか?『差別のトリセツ』なんて、大げさなタイトル付けて。マニュアル化できるほど、他の差別問題を知ってるんですか?」

 

テキト「いや、そもそも、トリセツなんて完成しないと思ってますよ。古い価値観による差別は解消されるでしょうけど、今まで水面下にあったものが新しい差別として問題化していくんです。あるいは、解消されたと思っていてた差別が復活したりとか」

 

司会者「じゃあ、永久にアップテートが必要だと」

 

テキト「そうなんですけど、なんか面倒臭いんですよね。扱いたい本は10冊くらいしかないんで、さっさと終らせたいんです」

 

司会者「さっき、完成しないって言ったじゃないですか。そもそも、なんで、差別問題を語ろうなんて思ったんですか?」

 

テキト「こう見えて、僕には挫折体験があるんですよ。失敗から学んだことを共有してもらえたらと。僕が目指したのは、僕が一番偉くて、あと他の連中みんな平等、って社会だったんです。けど、みんな平等ってのが実現できなくて。あいつら、ケンカが絶えなくて、それを治める政治力が足りなかったんですけどね」

 

司会者「あなたが一番偉いって前提が、そもそも無理ですよ」

 

テキト「まあ、うすうす気づいてましたけど。挫折体験っていっても、あくまでも脳内の出来事ですし」

 

司会者「実体験じゃないんですか?」

 

テキト「脳内だから良かったんですよ。傷ついたのが僕1人で済んだんですから。思い知らされたのは、完全な平等社会なんて実現不可能だってことでしたね。相対的になんとになく平均化させることは一時的に可能だと思いますけど。まあ、その話はおいおい」

 

司会者「このブログは、ずっと対談形式でやってくんですか?」

 

テキト「そのつもりです。まあ、音楽系ブログの「kenzee観光第二レジャービル」や「レジーのブログ」からのパクりですけど。対談形式って、画期的な発明ですよ。差別問題を扱った本って、難しい用語が出てきたりして生真面目になってしまうんですけど、できるだけ緩く、でたらめな部分を残したかったんです」

 

司会者「あなたのでたらめさは伝わってると思いますよ。そろそろ締めますけど、なにかメッセージはありますか?」

 

テキト「リンクの張り方が分かんなかったで、各自ググって下さい」

 

司会者「後で調べて、ちゃんと張ってくださいね。次回はなにを?」

 

テキト「中島義道『差別感情の哲学』の取扱いを説明します」